ブラジルの旅



 2007年11月の末から12月のあたまに
かけて、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを
旅しました。
本物のブラジル音楽を体験したくて滞在した
リオの8日間。
昼は美しい景色を求めて、夜は音楽を求めて
ライブハウスやサンバフェスティバルに奔走する
旅の記録です。

 今回はリオに焦点を絞ったのでなかなか
濃厚な旅になりました。
到着したばかりの時は治安の心配もありビビッて、
タクシー移動が多かったのですが旅の後半では
街にすっかり慣れて
地下鉄やバスも駆使できるようになりました。



ブラジル豆知識


 ブラジルの面積は日本の23倍で、
世界では第5位です。
1502年にポルトガル人によって発見され、
最初の首都はサルバドールが1549年に建設される。
1763年にリオ・デ・ジャネイロに首都が移転され、
1960年にさらに移転され現在の首都は
ブラジリアである。
今回、訪れたリオ・デ・ジャネイロの名前の
由来はポルトガル人がリオのグアナバラ湾を
川と勘違いしたことにある。
ポルトガル語でRioは川、Janeiroは1月の意味で、
つまり発見した時が1月であったことから
この名前がついたらしい。

気候

 リオの季節はちょうど日本と逆になり、
ぼくが行った頃は初夏といったところでしょうか。
気温は30度前後。日中の日差しはじりじりと
暑かったですが湿気が少ないせいか日陰は
過ごしやすい。


時差

 日本の12時間遅れの時差があります。
ただし、リオはサマータイム
(10月第2日曜から2月第3日曜まで)を
採用しているので
この期間は時計を1時間進める。

フライト

 とにかく遠い!
行程は成田からヒューストン(アメリカ)を
経由してリオまで。
成田からヒューストンまで12時間、
リオまでさらに12時間。
しかも乗り換えの待ち時間に6時間近く
ヒューストンで待機。
片道に計30時間を覚悟しなくてはならない。
ヨーロッパやキューバが近く思える・・。

レート

 旅行で気になることは、治安や食べ物など
いろいろありますが、やはりお金のことも
気になります。
ぼくが旅行した2007年12月現在の
為替レートは1へアル63円くらい。
スーパーなどの品物の値段はあまり
日本とかわらない。
ホテルはもちろん1部屋単位の料金ですから
日本のように人数分の料金をとられることはなく
2人以上で宿泊すればじゅうぶん安い。


リオのみどころ



コルコバードの丘

 リオのシンボルといえば、
やはりコルコバードの丘でしょう。
リオには奇岩というか、美しくもへんてこな
形をした山がたくさんあります。
その中で一番高く、尖っている山の頂上に
両手を広げたキリスト像が街を
見守るように立っています。
街のどこからも、その姿を仰ぎ見ることが
できるので、
それを見れば道に迷ってしまっても自分のだいたいの
位置はわかります。
宿泊していたコパカバーナ海岸のホテルから
丘の麓までタクシーで10分ほど。
そこからケーブルカーで15分登ります。
この日は快晴で丘の上からはリオ市街、
イパネマ海岸、コパカバーナ海岸がよく見える。
こんな巨大なキリスト像をどうやってこんな
絶壁の上に運んだのか不思議さと、
その美しさに感動です。

   


ポン・ジ・アスカール

 小さな半島に突き出たたまご型のユニークな山。
ポルトガル語で砂糖パンという意味です。
ここもリオに行ったなら必ず訪れてみたかった
場所です。
ここではまず第1ロープウェイで
海抜220メートルのウルカの丘に登り、
さらに第2ロープウェイに乗り換え
海抜396メートルの
ポン・ジ・アスカールまで登ります。
かなりのスピードで駆け上がります。
頂上は以外にも広く、きれいなショップもあり、
コルコバードと同様、外国人観光客が多い。
正直、ロープウェイから真下を覗くと
足がすくみました。
なかなか上級者向けのロープウェイ・・?

   


パケタ島

 地下鉄カリオカ駅近くのフェリー乗り場から
フェリーで1時間ほどの場所にある小さな島。
自動車はなく、そのかわり観光客を乗せる馬車や
人力車がたくさん走っている。
船着場にフェリーが到着し、観光客が
降りてくると大勢の馬車運転手が
「30分25へアル、40分35へアル、
1時間50へアルだよ」
と、しつこく声をかけてくる。
自分の足で歩きたかったので、それらは断りゆっくり
1時間ほどかけ島内を散歩した。
南国の色とりどりの花が咲き乱れる美しく、
そしてのんびりするにはとてもいい島だ。

   


カーボ・フリオ

 リオには世界的に有名なイパネマ海岸や
コパカバーナ海岸があります。
海岸線も美しく、とても活気があって
楽しい場所です。
しかし、有名海岸であるが故に海の透明度は
ちょっとイマイチ。
それで、さらに美しい透き通る海を求めて
ロドビアリア(Rodoviaria)という
バスターミナルからバスに乗り込む。
バスで2時間ほどゆられ海沿いの街、
カーボ・フリオ(Cabo Frio)に降り立ちました。
コルコバードの丘の麓にある日系の
お土産屋さんからいただいた情報でした。
そこにはガイドブックにはのっていない
最高の海がありました!
人生で出会った感動の海ベストスリーに
ランクインするほどの青い海。
人もいっぱい、レストラン、ショップも
たくさんある綺麗な街です。

   


チンチン電車

 カリオカ駅から徒歩10分くらいの場所に
あるトレムステーション(Estacao de Bondes)
から出発する100年以上の歴史をもつ
チンチン電車。
ラパ地区とサンタ・テレザ地区をつなぐ
山道を走る電車で料金は0.6へアルと格安。
山道といっても線路脇は住宅密集地であり、
地元の人の足がわりなのだが観光客も多い。
車両は扉もなく屋根と骨組みだけといったつくりで、
地元の人は慣れたもので走行中でも
自分の好きなところで乗り込んできたり
下車したりするという、かなりスリリングな
場面を見ることができます。
電車は風情ある美しい街並みを通りぬけて
30分ほどで出発駅に戻ってきます。
以外と体感スピードは速く、出発するとすぐに
下の写真のラパ地区のこれまた100年以上の
歴史をもつ水道橋の上を通過します。
高さは20メートルほどでしょうか、
電車も橋もかなり古く走る音もガタガタと
大きいので、かなりの恐怖です。
しかし、その恐怖も一度味わってしまえば
楽しさにかわるもので、滞在最終日にふたたび
チンチン電車に足をはこんでしまいました。
線路の折り返し地点のサンタ・テレザ地区では
下車して散策してみました。
眼下にはファベイラ(貧民街)も見え治安が
悪いのではないかと心配しましたが親切な
観光インフォメーションスタッフがいたり
警察官も多かったので安心して歩くことが
できました。
かわいい土産屋やレストランもけっこうあり
小奇麗でしゃれた町です。
ファベイラを題材にした絵をたくさん売っている
お店で気に入った油絵があったので1枚購入。
午後1時頃、遠くからジャズが聞こえてきたので
近づいみると扉の開け放たれた小さなレストランで
ジャズライブが行われていました。
休憩がてら、ちょっと立ち寄るつもりがワインを
飲みながらブラジルのジャズに耳を
かたむけていると、店内にはさわやかな風が
通り過ぎていき、おそろしいほど気持ちよく
ついつい長居してしまった。

     


リオの音楽


 今回の旅のメインは本物のブラジル音楽に
ふれることです。
リオに滞在した8日間に5つのライブに足を
はこぶことができたので、
まあまあの出席率でしょう。

 リオといえばやはりカーニバル!
毎年2月ころ開催され、
ぼくが行ったのはそれより
少し前の時期です。
リオのカーニバルを見れないのは残念ですが、
その準備期間の沸き立つような街の活気は
また独特でこちらも何だか元気になります。


ビニシウス(Vinicius

 イパネマ海岸にあるボサノバの老舗ライブハウス。
ボサノバの超有名曲の「イパネマの娘」の歌詞は
ここで生まれたそうです。
店名はその作詞家のビニシウスに
ちなんだものです。
観光客向けの綺麗なライブハウスで
料金は35へアルと高めだが何故かカード払いが
できないシステムだった。
ライブは2ステージで1部が男性が一人で
ボサノバの弾き語り。
2部は女性ヴォーカルとバンド。
弾き語りは、お馴染み「イパネマの娘」から始まり、
ボサノバの名曲をやさしく、
ささやくように奏でていく。
どちらのステージもとてもソフィストケイトされ、
かつあたたかい演奏で素晴らしかった。

   



ラパ地区


 ラパ地区は20世紀前半にリオがブラジルの
首都だった頃、リオ屈指の歓楽街でしたが
1960年のブラジルの遷都により
20世紀後半はやがて廃れていきました。
しかし、ここ10年の間に政府の援助を
受け復興され、今では様々なジャンルの
ライブハウスが軒を
つらねるリオの音楽の中心地となりました。
人種の坩堝であり治安も心配でしたが、
平日の夜でもたいへんな賑わいで人が
いないような所にさえ近づかなければ安全でしょう。
ラパ地区の代表的ライブハウス
「カリオカ・ダ・ジェマ(Carioca da Gema)」、
「サクリレジオ(Sacrilegio)」の
2軒に行ってきました。

   
 カリオカ・ダ・ジェマ  サクリレジオ 


 カリオカ・ダ・ジェマはラパ地区の
メインストリートであるメン・ジ・サー通りに
あります。
料金は15へアル。
客席は1階と2階にありライブ前から
ほぼ満席状態でしたが、ライブが盛り上がってくると
みんな1階のフロアで踊りだすので
ステージがよく見える席、見えない席も
あまり関係なくなります。
編成は男性ヴォーカル、ギター、カバキーニョ、
クイーカ、へコへコ、パンディエロ、スルド2人の
8人編成。
この店がリオで初めて行ったサンバの
店だったのでその迫力には衝撃を受けました。
まさにスルド(大太鼓)が叩きだす2拍子は
地面を揺らし、絶妙なアンサンブルで
哀愁あるメロディーが紡ぎだされていきます。
 サクリレジオはカリオカ・ダ・ジェマの隣にあり、
カリオカ・ダ・ジェマの翌日に行きました。
料金は15から20へアルくらい。
ライブ前にはお客はあまりいませんでしたが
ライブがはじまるとほぼ満席になりました。
編成は女性ヴォーカル、ギター、カバキーニョ、
パンディエロ、スルド2人の6人編成。
カリオカ・ダ・ジェマの方が人気店と噂を
ききましたが、なんのことらもよいライブでした。


サンバの楽器

 もともとサンバはおよそ音のでるものなら、
何でも楽器にしてしまう懐の深さがあります。
初期のサンバではフライパン、空き缶、
ドラム缶などの日常用品を改造したものを
演奏に使っていたようですが、もちろん今の
プロミュージシャンは楽器メーカーの製品を
使用しています。
 他にもたくさんサンバで使われる楽器が
ありますが、ライブハウスで使われていた
定番をまとめてみました。
和声進行を担当する楽器はギターと
カバキーニョのみです。
カバキーニョはウクレレくらいの大きさの
4弦楽器でサンバのサウンドには
欠かすことができない。


サンバ・フェスティバル

 ラパ地区を徘徊し始めて3日目。
目標にしていたライブハウスが休みだったので
あてもなく夜10時ころメン・ジ・サー通りを
ぶらぶらと物色。
するとどこからか、大音量のサンバが
聞こえてきます。
近づいていくと、そこはコンクリートむきだしの
倉庫のような場所で、入り口には扉もなく、
さらに壁と屋根の間にもずいぶん隙間が
あったので遠くまで大音響がもれていたのだ。
おそるおそる覗いてみると中ではサンバの
ライブが行われていて大勢の人たちが踊り、
ひしめきあっていた。
いちおう入り口には入場者をチェックする
いかつい黒人が立っていたので「無料か?」
と訊いたら「無料だ!」と答えたので
無料だし、楽しそうだし、
もうこれは参加するしかないと思いました。
 このフェスティバルは
Socialismo e Liberdadeというもので、
生のバンドをバックに歌手が数曲歌って、
次々に歌手がチェンジしていくといった
スタイルをとっていた。
お客はみんなビール片手にサンバに
合わせて踊っているので、
ぶつかりあってビールをかけたり、
かけられたりしても気にする
様子もなく笑っています。
もちろん、こんな所に東洋人なんて
他に1人もいませんから珍しいのか
たくさんの人がポルトガル語や英語で
話しかけてきます。
こちらもあやしいスペイン語や
英語で応戦します。
ブラジル人は親切で人なつっこく、
ぼくがビデオや写真を撮影していると、
こっちの方がよく撮れるなどといって
ステージ前まで人ごみをかきわけて
案内してくれる人もいた。

   
サンバの生き証人 ネルソン・サルジェント

 フロアの中央には長いテーブルがあり、
そこに明らかにVIP待遇の黒人の
小さなおじいさんがいました。
このおじいさんは1929年に創設された現存する
最古のエスコ-ラ・ジ・サンバ「マンゲイラ」の
創設メンバーのメンバーである
カルトーラの弟子であるネルソン・サルジェント氏でした。
エスコーラ・ジ・サンバとはサンバの学校のことです。
この方はよほど偉い人で、リオっ子の
誇りでもあるらしく何人もの人が
「この人はサンバの神様だ!」、
「一緒に写真を撮れ!」などと言って彼に
ぼくを何度も紹介しようとした。
サルジェント氏はかなりのご高齢のようでしたが、
フェスティバルのハイライトでいぶし銀のオーラを
放ちサンバを3曲歌いました。
フェスティバルが何時から始まったのかは
知りませんが、結局ぼくは午前1時の最後まで
楽しんでしまいました。


ストリート・ミュージック

 サンバ・フェスティバルを終えて会場から
出ると午前1時を過ぎていましたが、
ラパ地区はまだ宵の口といった感じで
たいへんな賑わいでした。
カーニバル間近のの金・土曜日になると
水道橋付近ではサンバの練習の光景が
見られるとのことでしたがぼくが通りかかったのは
残念ながら平日でした。
しかし、面白いストリートミュージックを
見ることができました。
若者たちが輪になり中央で数人の女の子が
くるくると踊っています。
踊りの伴奏はアフリカ系の打楽器奏者3人が
8分の6拍子のリズムをいろいろと変化を
つけて延々と演奏しています。
リーダーらしき1人の打楽器奏者が掛け声を
かけると回りの人たちもそれに
反応して合唱していきます。
そのフレーズは繰り返され、繰り替えされるうちに
どんどん回りの人たちを
トランス状態にしていきます。
 平日の深夜でも熱いラパ地区。ここの人々は
2月のカーニバルに関わらず、
1年中こんな感じで音楽を愛し、生きる喜びを
全開に放出しているのではないかと想像します。

   


リオでジャズ

 チンチン電車に乗って、出かけた山の
中腹にあるサンタ・テレザ地区で、Marcoという
小さなレストランを見つけました。
毎週金曜日の昼下がりにライブをやってるそうで、
偶然タイミングよくライブを聴くことができました。
リオで正統派ジャズを聴くつもりは
ありませんでしたが、ジャズの中にもちらほらと
ボサノバのリズムやフレーズがあらわれて
やっぱりここはブラジルなんだなあ・・と、
感慨にふけったものです。

   



たべる・のむ

ブラジルは肉だ!


シュハスコ

 やはりブラジルといえばシュハスコです。
シュハスコとは肉の塊の串焼きです。
牛、豚、鳥などの様々な部位を巨大なオーブンで
回転させながら同時に焼いていきます。
シュハスコの専門店をシュハスカリアといい、
ガルソンと呼ばれる人たちが焼きたての串を
持って客席を回って歩きます。
お客の気に入った肉が回ってきたら、
ガルソンを呼び止め食べたい部分や量を
指示してその場でカットしてもらいます。
肉好きにはたまらない状況でしょう。
味付けはシンプルな塩味ですが肉自体と
焼き方がよいのでこれ以上の味は
ないだろうと思わせます。
ブラジル人は本当に肉が大好きで、
よく食べます。さすがです!


ムケカ

 バイーア地方の郷土料理。
たまねぎやトマトをデンデ油(ヤシ油)と
ココナッツなどで煮込んだ料理です。
カーボフリオのレストランで食べた
魚介の入ったムケカです。
くせのある料理で本当においしいものに
出会うのは難しいようです。



フェイジョアーダ

 黒豆、豚肉、牛肉、ソーセージなどを
煮込んだ料理。
もともとは奴隷の食生活から生まれたもので
豚や牛の耳、鼻、手足など捨ててしまうような部位を
煮込むことから始まったそうです。
日本では豆を甘く煮ることは普通ですが、
世界的にはけっこう珍しいことでしょう。
この料理も当然甘くはなく、さっぱりとしています。


マンジョカ

 マンジョカはキャッサバとも
呼ばれる芋のことです。
白いさらさらの粉状に加工されています。
レストランではご飯にまずこのマンジョカをのせ、
そしてその上にフェイジョアーダをかけて
食べる光景をとてもよく見ます。
ブラジルの国民食とも呼べるほどの普及率です。
写真はパケタ島で食べた地元の魚フライ定食ですが
手前の皿にマンジョカと
フェイジョアーダがのっています。


お酒

 ブラジルの国民的アルコールはさとうきびから
作られるカシャーサというお酒です。
ライムとグラニュー糖を棒で潰して
氷とカシャーサを入れるとカイピリーニャという
カクテルになります。
ちょっと甘いですが海辺で飲むと最高です。
キューバのモヒートを思い出します。
ブラジルの代表的なビールは
「SKOL」、「ANTRCIA」、
「ITAIPAVA」などがあり、
どれもどっしりとしたうまさがあります。
写真はカイピリーニャ。




思う


 キューバを世界で一番、
人種差別のない国と言う人もいて、
もちろんぼくも同じ意見ですが現在のブラジルも
それに近いものがあるのではないかと思います。
アフリカからたくさんの奴隷を流入させたという
悲しい歴史の側面もありますが、
同時に多くの移民を受け入れてきた国柄と
いうものもあるのでしょう。

 今回の旅も最初の2日間のみホテルを予約し
残りの宿泊地はいきあたりばったりにしました。
ブラジルの公用語であるポルトガル語は
ほとんどわかりませんが、
わずかばかりのスペイン語
(スペイン語とポルトガル語は
似ていて、また南米のブラジル以外の国は
スペイン語圏なのでブラジル人もかなり
スペイン語を理解しています)と英語の能力で
いろんな人に助けられなんとか無事に旅を
遂行することができました。



 ある日、カーボフリオという海辺の街へバスで
日帰旅行をしてバスステーション(ロドビアリア)に
戻ったのが午後7時頃。
あたりはすでに暗くなっていました。
バスに乗り込む時に乗り場を確認するために
話しかけた年配のブラジル人女性と仲良くなり
バスがくるまで停留所のベンチでブラジルのこと、
カーニバルのこと、彼女の兄弟・子供・孫のこと、
日本のことなどの他愛ない
世間話をしました。
残念ながらバスの座席は指定席になっていて
彼女とは離れてしまったのでそれ以上、
バスの中で会話することはできませんでした。
しかし、終点に到着しバスを降りると彼女が
また話しかけてきました。
彼女によると、どうやらこのバスステーション周辺の
この時間帯はかなり物騒らしく、
ここから歩いて出るのはやめたほうがいいと
教えられました。夜は地元の人も気を
つける場所らしいのです。
ぼくはあまりその先の交通手段を考えておらず
ホテルには帰らずライブハウスに行くと言ったら、
彼女は危険だからといって
タクシーを手配してくれ
値段交渉までしてくれました。
とても優しい人でした。
荷物も持っていたので、油断してぶらぶら
駅から歩いて出ていたら強盗に
あっていたかもしれません。



 ある日、午後7時くらいのラパ地区。
ライブに行くにもまだ時間が早いので水道橋の
近くで腰をおろし、
さてこれからどうしたものかと思案していました。
物乞いが隣にやってきてぶつぶつ話しかけてきたり、
いかがわしい売人と思われる人間も近づいてきたりと
健全な場所とは言い難い。
ぼくのいた所は水道橋の下にある広場で、
その広場には臨時の柵が設営されており、
中には巨大スクリーンがあった。
おそらく何かのイベントがその屋根のない柵の中で
これから始まるのだろう。
ぼくは数人の人がせわしなく準備しているのを
ぼんやり眺めていた。
 すると、そのスタッフの一人の
ブルーノというやたら明るい男子大学生が
イベントに参加しないかと声をかけてきた。
彼はイベントの実行委員でたくさんの人に
集まってもらいたかったようだ。
主旨はブラジルとアフリカの歴史関係を
テーマにしたショートフィルムの上映会だった。
入場無料で柵の中には物乞いが
入れないよう警備の人間もいて安全そうだったので
遠慮なくお邪魔することにした。
ブルーノは実に気をつかう人間で、
イベントが始まるとぼくの隣に
座り退屈させないように
いろいろ話しかけてきたり、
自分の友達を紹介したりと忙しかった。
その友達がまた多彩で年齢もばらばら。
(みんな彼よりずっと年上の人ばかり)
無料のワインを飲みながら映画そっちのけで
会話がどんどん盛り上がって人も
後から後から増えていく。
映画プロデューサー、カメラマン、
ミュージシャン、元ブラジル美女、
日本びいきの酔っ払いおじさんなどなど・・。
とにかく、みんなすぐ友だちになってよくしゃべる。
むこうにしてみれば、突然やってきた
日本の珍客なんでしょうが、みんな底抜けに明るく
優しいので人種の壁を感じさせません。



 ブラジルの音楽にふれて感心したこと。
ブラジルにはサンバ、ボサノバ、ショーロの他にも
様々な音楽がありますが、とりわけサンバを
こよなく愛するリオの人々の心に
感動します。
そして、サンバには子供からおじいちゃんまで
みんなで歌えるスタンダードな曲が
たくさんあります。
これはたいへん羨ましいことです。
何故なら現代の日本で
そのような曲はほとんどないし、
これから生まれてくることも難しいでしょう。
世代と教育に連続性を
失ってしまったからかもしれません。

     



 リオはブラジルの一大観光都市で、
よく整備された街は近代的でとても美しく、
活気あふれています。
街をとり囲む山々には上へ行けば行くほど
貧民街がひしめきあっています。
ここにも確実に格差というものが
存在しているのです。
しかし、その光景は近代的な街と前近代的な街が
乖離しているというより、むしろそれは自然な
グラデーションで富裕層から
貧民層へとつながっていくように見えます。
そして不謹慎かもしれませんが夕暮れ時には
これらが不思議と溶け合って印象派のあわい絵を
みているような感動をおぼえます。
 ブラジルは現在、
BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と呼ばれる
高い経済成長率で注目される国のひとつです。
しかし、このめまぐるしい世界情勢(経済も含め)を
考慮して、10年前にリオを今回の旅と
同じように比較的自由な旅を
安全にできたかというと、疑問もあるでしょう。
ブラジルの、リオの変わりゆくほんの1シーンを
覗いてきただけの旅ですが発見と感動の
多い旅でもありました。
そこには発展と環境破壊が背中合わせの
問題として横たわっているのでしょうが・・。